発祥の由来

伊予氷見駅前に設置されている「西条だんじり祭り発祥の由来」の石碑。

画像をクリックすると、拡大表示します(以下の画像も同様)。

誉田八幡宮

石碑には、「誉田八幡神社」と記載されているが、正しくは「誉田八幡宮」だと思われる。

誉田八幡宮の詳しい情報については、下記「誉田八幡宮Website」からご覧ください。

また、石碑に記載の「藤だんじり」については、下記「誉田だんじり祭りWebsite」をご覧ください。

だんじりのミニチュアブロンズ像

伊予氷見駅前に設置されている「西条だんじりのミニチュアブロンズ像」。

高良大社

石岡神社の拝殿から北東方向に摂末社の一つである「高良大社」があり、その鳥居と拝殿の間の右側には「手水鉢」があります。

高良大社Website

高良大社の詳しい情報については、下記「高良大社Website」からご覧ください。

手水鉢

この手水鉢には、「寛政二庚戌(かのえいぬ)八月吉日」、「宮ノ下若連中」と刻まれています。

寛政二年は、西暦1790年ですから、今から200年以前の「宮ノ下若連中」の奉納品。

ちなみに、江戸幕府、1790年の将軍は、第11代 徳川家斉。

宮之下若連中

多くの参考資料には、宮之下の初奉納が「天保13年(1842年)以前」と記載されている。一方、この手水鉢の存在によって、少なくとも寛政2年(1790年)には、「宮之下若連中」が存在していたことになる。

ちなみに、愛媛県史編さん委員会編「愛媛県史」民俗編上(愛媛県 1983年)によれば、
表面的には明治37年(1904年)をもって「若連中」は解散し、明治41年(1908年)には村単位の青年会に発展して各部落毎に支部が置かれ、大正11年にはそれぞれ「青年団」と改称されるに至った。
との記載がある。

当時の若連中(=青年団)は、秋祭りの輿守(こしもり/神輿を担ぐ人)、奉納宮相撲・獅子舞い・盆踊り・村芝居など、あらゆる行事の運営にあたって、中心的な役割を果たしていた。また、急病人の搬送・道普請(みちぶしん/道の修理)・消防・夜警など、部落の日常生活を維持していく上でもなくてはならない存在だった。

それゆえ、若連中の存在、イコール、楽車の存在と断定することはできないものの、少なくとも寛政2年(1790年)には、宮之下に若連中が存在していることから、何らかの楽車、例えば「御船だんじり」が存在していた可能性も有り得ると、この手水鉢の存在によって言えるのではないかと思われる。

興味のある者は、是非とも高良神社の手水鉢をご自身の目で確かめて頂きたい。

初奉納

そこで、宮之下の初奉納時期を検討すると、

屋台番号と自治会名初奉納時期
第一番 寺之下寛延年間(1748年~1751年)以前
第二番 氷見西町天明元年(1781年)以前
宮之下若連中が高良神社の手水鉢を奉納寛政2年(1790年)
第三番 裏天保13年(1842年)以前
第四番 氷見下町天保13年(1842年)以前

そうすると、氷見西町と同時期頃に初奉納があった可能性が高いと考えられる。この初奉納が「御船だんじり」ではなく、「現行型のだんじり」であったとすれば、「第二番宮之下」となっていたのかもしれない。

なお、Website「四季の風車」の管理人も、「寺之下」に続いて第二番目に初奉納したのは「宮之下」ではないかと推測されている。残念ながら、Website「四季の風車」は、2026年8月31日をもって閉鎖されましたので、同Websiteの抜粋を下記に掲載しておきます。

Website「四季の風車」(抜粋)

寛延3年(1750)の西条藩の通達時における石岡神社の祭礼には、この「寺の下」の楽車のほかにも、すでに屋台が運行されていたのではないかと考えられます。その屋台が1台なら宮ノ下、2台なら西町と続くのですが、おそらく、宮ノ下と西町の両方ではなかったかと推測されます。というのも、その31年後の、天明元年(1781)の行列帳に、
 祭礼役人、太鼓、鬼、太鉾、屋台西町中、…山車類、御船、…神楽屋台土居中…。
 の記事があり、ここに御船があるからです。神楽屋台土居とあるのですから、この御船は、宮ノ下以外に考えられません。宮ノ下は寺の下に次いで早い奉納と言われます。この31年の期間内に宮ノ下が屋台から御船楽車(おふねだんじり)に切り替えたのなら分かりませんが、台数の少ない当時、こんな短い期間で作り替えるとは考えにくいですから、宮ノ下は、寛延3年(1750)当時から(それ以前の最初の奉納から)御船楽車だったという可能性は大きいでしょう。
 御船楽車だけでは屋台とは言いません。ですから、寛延3年と宝暦7年(1757)の文書では、御船楽車もまとめて屋台とは書いていますが、屋台と言う以上、西町もいたと考えられるのです。つまり、寛延3年(1750)当時に番号札があったかどうか知りませんが、1番寺の下、2番宮ノ下、3番西町が奉納していたのではないかと想像出来ます。このうち屋台は西町だけだったかもしれません。そのあと、天明元年(1781)頃に御神楽屋台土居が加わったということではないでしょうか。肝心の1番「寺の下」は、ここで言う山車に入るものと思われます。
(出典:https://verda.life.coocan.jp/maturi/history.html)

屋台番号

明治22年(1889年)宮之下は素木二階の初代「だんじり」を新調。
明治29年(1896年)末長は玉津村から購入した「だんじり」で「屋台番号」を取得。

上表のように、宮之下が初代「だんじり」を新調したのは、明治22年。一方、末長古老からの伝承によれば、玉津村から購入した「だんじり」で屋台番号を取得したのが、明治29年と言われている。つまり、宮之下の初代「だんじり」の新調の方が時期的には早い。

しかしながら、現在、末長の屋台番号は「第十二番」であり、宮之下の屋台番号は「第十三番」である。宮之下が明治22年(1889年)の「だんじり」新調時に屋台番号を取得していれば、末長の屋台番号「第十二番」か、それよりも小さい番号の筈である。

なぜだろう?

考えられることは、
(1)明治22年の宮之下だんじり新調以前に、末長が屋台番号を取得していた可能性。
(2)明治29年に末長の屋台番号の取得後に、宮之下が屋台番号を取得した可能性。
の2通り。

さらに、調査をした結果、下記の資料が見つかった。

西條史談 第82号

西條史談 第82号 P.66~69 万条 克己 著(抜粋)によれば、
石岡祭礼のだんじりの番号は、奉納を始めた時期の早い地区より順番に与えられるが、「三年以上奉納なき場合はその番号を取り消され最後尾に回る」と云う約束事がある。

宮之下は明治30年(1897年)御船だんじりを新兵衛に譲り、初めて素木二階だんじりを新調して奉納したが、明治30年の石岡神社の記録に「第拾四番宮之下屋台受付日より此番を付す」とあり、二番を取り消され最後尾に回っている。
との記載がある。

明治30年 第十四番 宮之下 誕生

宮之下は明治22年に初代素木二階だんじりを新調している。一方、明治30年の石岡神社の記録には、「第拾四番宮之下屋台受付日より此番を付す」とある。

この記録を基に判断すると、明治29年に末長が玉津村から購入した「だんじり」で屋台番号を取得したことと整合する。

ということは、明治22年に初代だんじりの新調から明治30年に「第十四番宮之下」となるまでの間、つまり、明治22年~明治29年までの間、宮之下は、
(1)「御船だんじり」で奉納(明治22年の初代だんじりでは奉納せず)
(2)明治22年の「初代だんじり」を無番で奉納(「御船だんじり」では奉納せず)
(3)上記(1)(2)の両方、すなわち「御船だんじり」で奉納するとともに、明治22年の「初代だんじり」を無番で奉納という3通りが考えられる。

個人的な考察として、明治22年に「初代だんじり」を新調したにも関わらず、「初代だんじり」では奉納しなかったとは考えにくい。よって、上記(1)ではない。
一方で、宮之下は、明治30年頃(正しくは明治29年)までは「御船だんじり」で奉納していた。という記録があることから、上記(2)でもない。

そうすると、明治22年から明治29年までは、上記(3)の「御船だんじり」で奉納するとともに、明治22年の「初代だんじり」を無番で奉納していた可能性が高い。

ちなみに、三代目宮之下楽車で屋台番号「第十四番宮之下」の画像を作成してみたが、見慣れない屋台番号であるため、個人的には違和感しかない。

ここで、明治30年に初代だんじりで「第十四番宮之下」が誕生してから2年後、すなわち、「明治32年頃」の第九番~第十七番までの屋台番号とその自治会名の対応を下記に示す。

明治32年頃の屋台番号と自治会名

屋台番号自治会名
第九番山口
第十番上之浦
第十一番氷見新町
第十二番楢之木
第十三番末長
第十四番宮之下
第十五番新御堂
第十六番新出
第十七番久保

明治35年 第十三番 宮之下 誕生

上記、西條史談 第82号 P.66~69 万条 克己 著(抜粋)によれば、
明治35年の祭礼では第九番山口地区は三年以上奉納していないと云う理由で番号取り消しとなり、他は繰上げ番号となった。
との記載がある。

明治35年に第九番山口が屋台番号を取り消され、屋台番号が繰り上がると、「明治35年以降」の第九番~第十七番までの屋台番号とその自治会名の対応は下記のようになる。

明治35年以降の屋台番号と自治会名

屋台番号自治会名
第九番上之浦
第十番氷見新町
第十一番楢之木
第十二番末長
第十三番宮之下
第十四番新御堂
第十五番新出
第十六番久保
第十七番新兵衛

明治31年 下町組の解散

明治30年に宮之下が、明治22年に新調した初代素木二階だんじりで屋台番号を正式に取得した背景には、理由がある。それは、下町組(新御堂、氷見下町、新出、久保の4組)の解散である。

すなわち、西條史談 第39号 P.54 吉本 勝 著によれば、
第四番下町組(新御堂、氷見下町、新出、久保の4組)は、楽車を出していたが、明治31年に各組で出すことになり、抽選の結果、第四番を「氷見下町」が受け継ぐこととなり、「第十五番新御堂」、「第十六番新出」、「第十七番久保」と決まった。
との記載がある。

また、宮之下古老からの伝承によれば、明治30年頃、下町組(新御堂、氷見下町、新出、久保の4組)の解散話を小耳に挟んだ際、明治22年に新調の初代素木二階だんじりを、このまま「無番」で運行していては、屋台番号が大きくなってしまう。そこで、下町組(新御堂、氷見下町、新出、久保の4組)が解散する前に、正式に屋台番号を取得しようという機運が高まり、その結果、明治30年に「第十四番宮之下」となったと言われている。

御船だんじり 第二番 宮之下

西條史談 第82号 P.66~69 万条 克己 著(抜粋)によれば、
二番を取り消され最後尾に回っている。
との記載がある。

宮之下に関する情報であることは分かるものの、明確な主語がないため、何が二番を取り消されたのかが不明である。個人的な考察として、明治30年の話であることを考慮すれば、当時の宮之下の「御船だんじり」の屋台番号が「第二番」であって、明治30年に「御船だんじり」から「現行型のだんじり」の奉納に切り替えたことにより、宮之下の「御船だんじり」の屋台番号「第二番」が取り消されたと記載されているものと思われる。

例祭日

例祭日ー小神輿

西條史談 第39号 P.41 吉本 勝 著によれば、
例祭日は、神社の案内書によると、元禄7年(1694年)迄は、8月24日・25日(旧暦)であったが、当時八幡祭は8月14日・15日の例が多かったので、西條藩より今後8月14日・15日と改めるように通達がった。此の例祭日は明治8年まで続いたが太陽暦となり、10月1日・2日と改められ、その後何回か変更されて、現在では10月14日・15日となった。
との記載がある。

与 丁

大神輿と小神輿と与丁

神輿の担ぎ手のことを、石岡神社では与丁(よちょう)と呼ぶ。ちなみに、伊曽乃神社では、神輿の担ぎ手のことを本肩(ほんかた)と呼ぶ。

神輿を担ぐ人の白装束は、主に白丁(はくちょう)と呼ばれる。これは、神聖な神輿を運ぶ際、担ぎ手や奉仕者が神の使いや神事の下働きとして、汚れのない純白の衣装を身につけるという伝統に由来している。

(出典:https://www.youtube.com/watch?v=llXcIsAfZeMからのキャプチャ画像)

与丁の掛け声

西条祭りにおいて、神輿の担ぎ手である与丁(本肩)は、「ちょうさざ・ちょうさざ」との掛け声を発する。この「ちょうさざ」を漢字で表すと、「超在座」と書く。その意味は「超越した神様がここに存在している。」であり、そのことを周りの人々に知らせる掛け声である。

提灯枠

夜のだんじり運行に欠かせないのが小丸提灯であり、その小丸提灯を取り付ける提灯枠も必須である。この提灯枠は、どこの自治会から始まったのかを調べてみた。すると、

西条市生活文化誌 P.902 編集・発行:西条市 (平成3年4月発行)によれば、
昭和40年代に「仲町小川」が提灯枠を作り、百個近い提灯をつけて登場し、この枠も流行した。
との記載があることから、「仲町小川」が最初に提灯枠を採用したと思われる。

台 車

渡御行列を始めとするだんじり運行に欠かせないのが台車である。この台車は、どこの自治会から始まったのかを調べてみた。すると、

西條史談 第39号 P.53 第十二番 末長組の項目によれば、
「昭和35年頃は、末長組は戸数が24戸と舁手が少なく車をつけて舁いだ、これが楽車に車のつけ始めのようである。」との記載があることから、末長が最初に台車をつけたものと思われる。
なお、この当時の台車は、現在の台車とは異なり、後輪(尾輪)がなく、板バネ(リーフスプリング)の台車であったため、楽車の前肩と後肩の双方に舁夫が必要であった。

袖提灯

袖提灯は、夜道を照らす足元灯として、昔は多くのだんじりが採用してきた。
しかし、袖提灯は壊れることが多く、外灯も整備されたことから、袖提灯は徐々に衰退。
現在、西条市内のだんじり(約140台)で袖提灯を付けているのは、第九番上之浦、第十番氷見新町だけとなってしまった。

第九番 上之浦

石岡神社 秋季例大祭 第九番 上之浦
平成5年(1993年)新調後も、袖提灯を継承。

(出典:https://www.youtube.com/watch?v=Wd5g488RRCkからのキャプチャ画像)

第十番 氷見新町

石岡神社 秋季例大祭 第十番 氷見新町
江戸後期~明治初期頃に建造と言われており、現在も袖提灯を継承。

(出典:https://www.youtube.com/watch?v=Wd5g488RRCkからのキャプチャ画像)